標高3000メートルから先は、異世界だった。そして僕らはそこにいた。
絶対、絶対にこれ以上、登りたくない。もう散々だ。
午後8時、雨嵐吹き荒れる山荘、標高3000m近くで僕はそう思った。
話は入山1日目に巻き戻る。
入山1日目。
僕は登山を完全に舐めていた。
ハイキングみたいなものだと完全に勘違いしていた。楽しく森林浴しながらお散歩。
お花畑の頭の中で僕がスキップしていた。
冷静に考えれば、
山専用のカッパを買ったりゴツい山靴を買ったりしている時点で、
疑問に思うべきだったと思う。
入山2日目。
入山前に買ったものが全部必要なものだとわかったのは、
最初ハイキングコースだった道が徐々に岩だらけになったり、
雨が降って来て予想以上に山が寒いと知ってからだった。
そこからは先は酷かった。
雨で視界が悪い。
今自分がどれくらいの高さにいるのかわからない。
わからないのに、
切り立つ崖のような壁(僕にはそう見える)を登らなくてはならない。
手を離したら確実に死ぬ鎖(僕にはそう見える)を掴んでさらに高度を上げなくてはならない。
眼鏡が雨で曇って何も見えず、
見えるものは目の前の岩、
信じられるのも目の前の岩しかなくて、
いつこの崖が終わるかもわからない、
いつここから落ちて死ぬかもわからない、
死ぬ死ぬ死ぬ、
そう思いながら必死に登ってようやく小屋の屋根が見えた。
僕はものすごく安堵した。
そこが穂高山荘だった。
助かった、とも思った。
全然助かってなどいなかった。
雨で視界が悪い中、山荘の向こうに薄っすらと見えたのは岩。岩。岩。
岩が積み重なって塊を作っていた。
それはただの絶壁だった。
3000m近くにある山荘よりも標高が上だった。
上の方はぼんやりしていて全然見えなかった。
そう。山荘のすぐ近くには「奥穂高岳」があった。
そして明日は、
あの絶壁を登って、
3190mの奥穂高の山頂に登らなければならなかった。
入山3日目。
本来なら今日、奥穂高山頂に登る予定だったが天候のため先延ばしになった。
その日1日、穂高山荘は嵐に巻き込まれたのだ。
風と雨。
標高が高くなると、風は気まぐれを通り越してやけくそのようにその風向きを変える。
風向きが変わると雨の向きも変わる。
雨が窓を打つ。
その一瞬後に屋根を打つ。
今度は反対側の窓を打ってすぐまた屋根を打つ。
山頂付近の自然の変化はしりとりじゃない。
一つ前の状態が全く違う状態に変わるのだ。
雲。
3メートル先は何も見えない。昼間なのに。
視界がほぼ白なので本当に昼間なのかも分からない。
これは霧?
これは霧なんかじゃない。
雲だ。
穂高山荘は雲に完全に包まれてしまっていた。
そしてその中で嵐が吹き荒れている。
まるで竜の巣が晴れる前のラピュタのようだった。
山荘の中から外を見る。
僕が覗いている窓から3m離れたところを雲が駆け抜けていく。
雲がすぐそばを駆け抜ける。
見たことない、恐ろしい光景だった。
僕が今知っている世界は山荘の中と外。
外はただただ乳白色と灰色の中間の色に満たされていて、
何一つ物が存在しないように見える。
この山荘は本当に地面に接しているのだろうか?
いつのまにか風に飛ばされて空を舞っているのではないだろうか?
それくらい、何も見えなかった。
ただただ怖かった。
明日は山頂まで登らなければならない。あの絶壁を登って。
僕は完全に死刑執行前の囚人だった。
なんでこんなに辛いのに、人は山に登るのか。
わからなくなって、その日は山荘にあった本「山の天気」を読んでいた。
その日の夜は眠れなかった。
絶対、絶対にこれ以上、登りたくない。もう散々だ。
午後8時、雨嵐吹き荒れる山荘、標高3000m近くで僕はそう思った。
「明日は登頂だ。3時には起きるぞ」
その言葉が僕には死刑宣告に聞こえた。
そして入山4日目。
今日、僕は死ぬかもしれない。
明日山頂にたどり着かず、僕だけ死ぬんだ。
3000メートル転がって、その途中で死ぬんだ。
そんな未来しか見えなかった。
終わり来る未来を想像し尽くし、ただひたすらに憂う。
眠れなかった。そのままついに3時が来た。
一緒に山を登っている友人を起こす。
彼はすぐ起きた。
起きてすぐ、彼は言った。
「星が」
目線は窓。僕はつられて窓を見た。
そこには星座が見えた。
違う。そこに星座が「居た」。
オリオン座。それがオリオン座であることが一瞬でわかった。
星は本当に何万光年も離れていたのだろうか。
ゼロ距離のような、圧倒的な存在感を放つその星座がそこに「居た」。
星々をつなぐ線が見えた、気がした。
夏の夜明け前だった。
上半身を起こしてすぐ覗けるくらい近い窓から、オリオン座は僕らを見ていた。
僕らが起きるずっと前から、オリオン座は僕らを見ていたのだ。
僕は思わず身を乗り出した。
そして呟いた。
「天の河?」
本当に、天の河だった。
天頂に、薄いミルクを夜空にこぼしたような跡。
目を凝らすとそれがいくつもの星で構成されていることが分かった。
教科書でしか見たことがない天の河が本当に、本当にあった。
嘘のようだった。本当に嘘かもしれなかった。
でも。
「僕は今、初めて銀河を見ている」
そう思った。
昨日、一歩先も見えないような嵐があった。
そして今日、そのあと気味が悪いくらい晴れた。
今にも落ちて来そうな近くに星があって、銀河まで見えて。
もう、この世の終わりかもしれない。そう僕は思った。
僕らはそのまま、無言で支度した。
みな、何を天秤にかけているのだろう。
登頂と命だろうか。
僕は登頂したことがないから比べるものがない。
僕にとって登頂は質量ゼロだ。
だから「命じゃない側」に天秤が傾くことなんてありえない。
みんな頭がおかしい。
なぜ、人は山に登るのか。
まだ僕にはわからなかった。
――でも、登ったらその答えがもしかしたら分かるかもしれなかった。
星空を見て、そう思った。
すべての支度が整い、外に出る。
僕は一番近くの岩に、軍手をつけた手をかけた。
そこから先のことはあまり覚えていない。
岩。
つかんで体を上げる。
ありえないくらいの高度に自分がいることがわかった。
でも下をみない。
岩。
つかんで体を上げる。
岩。
岩。
鎖。
はしご。
永遠とも続くような「登る」という作業。
岩。
手をかける。
体を上げる。
そして、
僕は
それを
見た。
金色に輝く雲海が目の前に広がっていた。
足元から雲が湧き上がって来ていた。
360度の大展望だった。
地平線がどこまでも広がり、円く見えた。
地球の一部をコンパスで切り取ったらこんな感じなのだろうと思った。
これらの言葉が
圧倒的に
圧倒的に
無意味だった。
ただただ目の前には世界があった。
そして、それを表現することができる言葉は、この世界になかった。
それほどの光景が目の前に広がっていた。知らずに口が開いていた。
雲海は比喩なんかじゃない。
本当に雲の海があって、山という島が点々とあって。
海だって風で波がおきる、だから雲海だって風で波がおきるのだ。
雲は波のように刻一刻と姿を変えていく、
それに呼応して山は見え隠れしその姿を変える。
信じられなかった。
こんな場所が、まだ世界にあったなんて。
なぜ山に登るのか。
命と何を天秤にかけたのか。
その瞬間、それらの答えがありえない質量となって腑に落ちた。
僕はこれを見に来たのか。
皆これを見に来ていたのか。
この感情を、一生忘れたくないと、僕は思った。